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チェコ・音楽と平和の旅Vを終えて

チェコ・音楽と平和の旅V
2000年5月


その日、チェコの小さな町テレジンの文化会館では、新しいグランドピアノが白い布をかけられ、出番を待っていた。「テレジンにピアノを贈る会」の呼びかけにこたえた874人の日本人から、同市へ寄贈されたピアノだ。通路まで人で埋め尽くされ、セレモニーが進むほどに、贈る側と贈られる側の心が溶け合い、拍手が沸き起こる。今年の5月8日のことだ。


 テレジンの町は、1941年から45年まで、ナチス・ドイツによって、ユダヤ人をアウシュビッツへ送り込むための中継的な収容所として使われた。97年の夏に初めてこの地を訪れた私は、記念博物館に展示されていた一枚のポスターの前にくぎ付けになった。「K」の字が黒い燕尾服を着て、ピアノを弾いている。ギデオン・クライン(1919-45)という人のコンサートの案内だった。
 テレジンでは多くの芸術家が収容され、死を目前にしながら芸術活動を展開した。”ああ、ピアニストもいたんだ”。わかっていたことではあったのに、一体どんな思いでいたのか、とポスターから目が離せなくなったのだ。数日後に立ち寄ったプラハの小さな店で、そのクラインが作曲した「ピアノのためのソナタ」の楽譜を見つけた。

 しかし、25歳でナチスに殺された作曲家が収容所の中で書いたその作品を、私はすぐに弾くことができなかった。数ヶ月後、ようやく譜面を開いた時の強烈な印象を忘れることができない。強靱な意志と豊かな知性、若々しい生命力。第二楽章は美しい中にも収容所の「夜」を、第三楽章はテレジンを訪れた日に感じた陽光のきらめき、作曲家の魂が青い空に向かってどこまでも飛び続けていくようなエネルギーを感じた。

 この「K」の意志の力に引き込まれるかのように、私は日本国内はもとよりテレジンでも演奏会を行い、さらには満足なピアノのない現地に楽器を贈る運動にかかわることになった。


 縁とは不思議なもので、一緒にテレジンを訪れ、収容所にいた子供たちの絵に感動し、自分の生徒の絵をテレジンに贈った養護学校の美術教師、石井克さんが私のリサイタルを企画してくださった。98年4月24日、群馬県桐生市の市民文化会館でクラインのソナタを弾いたのが、思いがけず日本初演になった。

 それ以来、やはりテレジンで活躍した作曲家のヴィクトル・ウルマン(1898-1944年)の最後のソナタ7番とともに、国内各地で演奏し、作品が生まれた土地で演奏したいという私の願いも昨年5月にかなうことになった。

 私はテレジン唯一のグランドピアノで、「すべての犠牲者に聴いてほしい」という思いを込めて演奏したが、反応は予想を越えるものだった。

 ドイツ人音楽ジャーナリストで、テレジンに移住し、現地の芸術の復興に文字通り身を捧げているガビー・フラトウさんは「倒壊しそうなピアノで」、テレジンの作品を弾いたことを「作曲家たちへの最高の捧げ物」だと書いてくれた。

 その時に同行した人たちを中心に「ピアノを贈る会」は発足した。”テレジンの芸術を蘇らせるためのピアノ”だ。やはりテレジンに収容されていた作曲家の名を冠した「ハンス・クラーサ基金」をつくっているフラトウさんと緊密な連絡を取り、またさまざまな分野の人の献身的な努力によって、運動は実を結んだ。


 今年4月28日、新しいピアノを迎えたテレジンのフラトウさんから「ありがとう!ありがとう!」とファクスが届く。贈呈式とコンサートの前日、リハーサルでウルマンのソナタ第7番を弾き終えた時、客席の方を見ると、86歳のエディット・クラウスさんが少し首をかしげ、十代の少女のようなたたずまいで、じっと私のことを見ていらした。イスラエルから駆けつけてくれたクラウスさんは、4年間テレジンで収容されていたピアニストだ。彼女は立ち上がり、ゆっくりと私のところに来て、「あなたの新しい演奏をたくさんの人が好きになるでしょう。本当に驚くべきことだわ」と言った。

 ウルマンのCDの演奏を通して、私はクラウスさんを心から尊敬していた。ウルマンの厚い信頼を受け、6番のソナタを収容所で初演した彼女は、家族や友人をガス室に送られる中、なぜ自分が生き残ったのかわからない、今でもテレジンに来ることはつらい、と語る。そのクラウスさんの心に、私の演奏はどう響いたのか――。私はその日、スカルラッティ、ウルマン、ベートーヴェン、クライン、林光の作品を弾いた。

 今月22日(東京・新宿の角筈区民ホール)、7月18日(同・立川市アイム)のコンサートを皮切りに、私は今後もテレジンで生まれた作品を弾き続けるつもりだ。音に込められたものを全身全霊で感じ取り、表現したいと思わずにはいられない作品の力に導かれて。


志村 泉(6月13日(火)日経新聞文化欄より)

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