作品と私の語らい

1988/11/19 : 志村 泉
世紀末のピアノ音楽

昨年のリサイタルを前にして「ここを通らなければどこへも行けない」と私は語っていたらしい。「ここを通る」とは、3つの委嘱初演を含む日本の作曲家の作品による一晩のコンサートを通して、”ピアノを弾く”ということをこの手で確かめたかった、ということだ。

そして確かに私は、自分の中にしっかりつかんだものがある。それは一言で言えば、”作品と私との真剣な語らい”というようなものだった。作品が演奏され続けてきた歴史や、解釈や、私自身の思いや、また作曲家の思いからさえ解放されて、作品と私の魂が触れあうような気がした。

“演奏”というのはそんなものではない、という意見はあると思う。でもこれは私が私の中に実際につかんでしまったもので、正しいとか正しくないとか判断するものでもなく、やはりあの経験を通してしか得られなかったものだ。そして気が付いたら、その私だけのものを内に抱いて、さてどこに向かって歩いて行ったらいいのかほとんど混乱の中にいた。溢れるほどあるピアノのための作品の中から、この私が今、魂の触れあうことのできる作品をひとつでも見つけたいと思っていた。

世紀末に目を向けはじめた時、ピアノ曲に関しては嵐の前の静けさのようなこの時期で、一晩のコンサー卜を組むのは無理だと思った。それほどその前後に比べ、作品が少なかった。しかし私は、トビュッシーの「ベルガマスク」、スクリャーピンの「幻想ソナタ」をにぎりしめながらリストの晩年に気付き、ツェムリンスキーの楽譜を手に入れ、自分とは無縁と思っていたサティの中にどうしても弾いてみたい曲を見つけた。

ほとんど1年間の苦闘のすえ生まれた今回のプログラムは、今になるとまるで最初から用意されていたもののように不思議に調和している。どの曲も深く優しく、私が少しずつ近づいて行くのを待っていてくれるような気がする。

志村 泉(演奏会プログラムより)