スークとクライン – チェコ、二人の作曲家を結んで

2013/11 : 志村 泉
人権と部落問題 9月号

チェコの作曲家ヨゼフ・スーク(1874~1935・2年前に亡くなった同名の名ヴァイオリニストはその孫)は大作曲家ドヴォジャークのもとで作曲の勉 強をし、師の娘オルティカを愛するようになります。ドヴォジャークが娘を連れてアメリカに渡っている間に書かれたピアノ曲「愛の歌」は、オルティカへの愛 を歌い上げた甘美で情熱的な作品で、その主題はその後もスークの作品に“愛の象徴”としてしばしば現れます。そしてアメリカから戻ったオルティカと結婚し 子どもが生まれた年に作曲された組曲「春」は、若々しいエネルギーに溢れ、春を歌い上げます。この時期の作品の瑞々しさが、スークの音楽の特徴と言えるか もしれません。
しかし妻オルティカは3歳の息子を残して他界し、スークはいったん作曲の筆を折ることになります。「春」から7年後に書かれた「人生と夢」という組曲は、 同じ作曲家の作品とは思えないほど、深く微妙な心の内面を表現していて、難解ですらありますが、また実に味わい深い美しさを、そしてやはりスーク特有の 瑞々しさをたたえています。華やかさはありませんが難曲で、コンサートで演奏されることは少ないと思いますが、この作品を1940年代前半に演奏していた 若者がいました。
ギデオン・クラインという1919年生まれの天才。チェコのユダヤ人家庭に生まれ、幼いころからピアノ演奏で音楽の才能を表し、10代で作曲を独学で勉強 し、のちに当時の現代音楽の巨匠アロイス・ハーバのもとで新しい世界に触れ、音楽だけでなく芸術全般にわたって、世界の最先端で生きていきたいと考えてい た20歳をやっと越えたばかりの若者。そのギデオン・クラインは22歳の誕生日を2日後にひかえて、テレジーンの強制収容所に送り込まれます。
文化的な活動は一切許されない中、故郷の歌を歌わずにはいられないたくさんの人々のために、様々な地方の民謡を皆で合唱できるよう編曲したのが、テレジー ンの収容所での彼の最初の音楽の仕事。そのうち誰かが壊れたピアノが捨てられているのを見つけ、皆でこっそり廃校になった学校の屋根裏の倉庫に持ち込み、 コンサートをします。
ヨーロッパ中から優れた音楽家たちが収容されてきていたテレジーンでは、その後ナチスの宣伝に使われるためではありましたが、実際信じがたい音楽活動が展 開され、多くの人々が音楽から力を得ていたのです。あらゆるコンサートは詳しくその内容が記録され、その詳細は、先ごろ山本耀郎氏によって翻訳されたヨ ジャ・カラス著「テレジーンの音楽」によって知ることができます。
並外れた才能とともに、周りの人々を励まし続ける温かい人柄で、年は若くともクラインは収容所の音楽活動の原動力でもありました。
彼が収容所で作曲した唯一のピアノ作品を私は弾いてきましたが、その作品の完成度の高さに驚くとともに、あのスークの「人生と夢」を演奏した彼の、ピアニ ストとしての成熟を思うと、25歳で命を絶たれることがなかった なら、どれほどの音楽家になっていたかと、思わずにはいられません。