ふたたびテレジーンへ-その1

1999/05 : 志村 泉
チェコ・音楽と平和の旅Ⅱ

5月3日。プラハからテレジーンへ向ったその日は、2年前の夏、初めてテレジーンを訪れたあの日と同じように、素晴らしい天気だった。そしてバスから見渡す景色はやはり5月のチェコ。前回よりもいっそう美しい。

今回は、ただ収容所の町の見学に行くのではない。収容所で作曲されたヴィクトール・ウルマン、そしてギデオン・クラインの作品を中心にしたプログラムを組 んだ私のリサイタルが、夜、テレジーンの文化ハウスで開かれる。同じ道をバスで走ったあの時、誰がそんなことを予測できただろうか。

何も知らなかった私があの日、収容所の記念館でピアノ・コンサートのポスターを見て初めてギデオン・クラインの名前を知り、2日後プラハの小さな楽譜屋さ んで彼の「ピアノのためのソナタ」の譜面を見つけ、8ヶ月後に桐生で日本初演をし、そのあとウルマンの最後のソナタとともに何回か演奏してきた。

昨年の秋、ムジカの渡辺さんから「来年のチェコではテレジーンでもコンサートができるといいですよねえ」と言われた時、まるで雲をつかむような話だと 思ったけれど、「ええ、どんな場所でもとにかくピアノさえあればできますよね」と答えていた。記念館の館長さんとは多少の交流はあったものの、何の目算も 無かったと思う。でも何故かできると思えた。

今までも渡辺さんは、とても無理ではないかと思うことを、手間を惜しまず丁寧な仕事を積み重ね、その誠意が相手を動かしてきた。場所さえ確保できれば、た とえどんな小さなコンサートでもクラインとウルマンを弾いてきたい。こんなに日本の聴衆に驚きを持って受け入れられる作品を、ふるさとのテレジーンで演奏 したいと思った。

午前中は前回立ち寄らなかった、主に政治犯が収監されていた監房の見学。もともと18世紀後半にヨゼフ二世によって要塞として作られたという建造物に は、第二次大戦中のナチス・ドイツによるあまりにも悲惨な使われ方を一応知ってはいても、その形や煉瓦の肌合いに何か心を惹かれる。春の日差しと草の緑の 美しさのせいかもしれない。

それが、中庭のアーチにくっきりと描き出された「ARBEIT MACHT FREI」(労働によって自由になる)という言葉に、いっぺんに凍りついたような気持ちになってしまった。ねじ曲げた「正義」の名のもとに、人の自由や命 を平気で奪ってゆく群団の卑劣さが、その黒々とした文字から滲み出ているように見えた。

「ここには最初百人、後には二百人がいました」ガイドさんが説明してくれる部屋には、写真で見たことのある木の三段ベッドや、個人のものを入れたという 小さなロッカーやテーブルが、オリジナルで残っていた。部屋の大きさに対してそんなに多勢の人が、いったいどうやって暮していたのか想像もできないが、そ れでもそれらの粗末な家具から、そこにいた人達の生活が感じられた。ロッカーの棚には家族の写真を置いたのだろうか、ほんのわずかな自由時間に、自分達の 家族のことや未来を語り合ったのだろうか…。先へ進むと家具も何も無い窓がひとつきりの小さな部屋。「ここに40人の人がいました」。そして、窓さえない 真っ暗な部屋。

見学している間、収容されていた人達の気持ちを思い胸が苦しくなった。そして驚いたことに、何回か、私の眼の内にあるひとつの「物」が浮かんで来た。昔、畑を耕すのに使った道具を逆さまにしたような物だった。

最初は一瞬、いったい何だろうと思ったが、すぐ思い出した。昨年夏、中国のハルピンで訪れた日本軍の「731部隊」の記念館で見た物だった。生体実験で取 り出した臓器をかける「物」だ。あの旅の中で見たのは、私達があまり知らないでいる中国での過去の事実の「一部」であったかもしれないけれど、私には真正 面に向かい合うには重過ぎた。

そしてあのうす暗い記念館のガラスケースの中にあの「物」を見た瞬間に、シャッターが切られたように私の中にあの「物」の形が残ったのかもしれない.8ヶ 月経ってこのテレジーンで、それが意識下から出て来るとは思ってもみなかった。確かにあの中国への旅の前と同じ気持ちで、この収容所の見学はできないだろ うとは思っていた。

2年前初めてチェコへ来る前に、早乙女勝元さんの「プラハは忘れない」の本の中で知り、ショックを受けたリデツェ村の大量殺りく。でも平頂山にも、日本軍 によって突然理由もなく殺された三千人の村人の白骨が八百体、そのまま残されていた。すべてほんの60年ほど前のことだ。

収容所内のマロニエの木には、桐に似た白い花がいっぱいに咲き、風に揺れるのがほんとうに美しい。ウルマンやクラインを含めた十数万人もの人々が、収容されてはアウシュヴィッツに送られていった時も、テレジーンの日差しは同じように美しかったのだろう。

その人々が遺したものが私達に語るのは、戦争の残虐性や非人間性というよりも、そんな状況の中にあっても、もしかしたらそんな状況の中でいっそう鮮やかに 見えてきた、本来誰もが持っている人間らしさ、信頼関係、知性や希望を持つ力、そして芸術的な創造活動をせずにはいられない人間の姿なのかもしれないと 思った。

女性画家、ブランディソーヴァの指導のもとにこども達が発刊していた雑誌「VEDEM」、様々な材料を利用して作られた手作りのぬいぐるみや遊び道具、画 家や作曲家達が遺した優れた作品の数々…。こんな命の輝きを見せる人間性と、自分と同じ人間をマルタ(丸太)として扱ってゆく非人間性と、私達の中に はどちらかだけではなく、両方があるのかもしれない。

午前中の見学を終えてバスに向って歩きながら、夜のリサイタルのことを考えた。さすがに”私に何ができるのだろう”と思わずにはいられなかった。あの収 容所を見学すれば当然、自分に何かが返って来る。そして誰もがそれぞれに何かの形でその答えを見つけようとする中たとえ意識的にそうしなくても何かが残 る。

一晩のリサイタルの場をこのテレジーンで与えられた私は、せめて集まってくださる町の人達、同行の方々だけでなく、この収容所に関わった人々に心安らいでもらえるような時を一瞬でも持ちたいと思った。

志村泉(会報『ムジカ』218号(1999年5月発行)より)