4月に東京サークルの小林優さんの、中学2年生の音楽の授業に参加する機会をいただいた。東京郊外、町田市の新興住宅地にある学校の校庭は広く、校舎の前の花壇が素晴らしかった。
授業の前半小林さんは、ほんとうは緊張していらしたかもしれないけれど、自然で無駄のない進め方で、生徒は予想をはるかに超えて前向き。全員が音楽を楽しんでいるのが感じられた。
私を紹介していただいて最初は「魔法の鈴」。
そして「ます」。
前半に小林さんのピアノで歌われた「ます」がとても素敵だった。でももっと“きらきら”した歌になるのではないかとも思い、そのとき私が感じていることを そのまま話してみた。「この歌のお話の筋も大事だけど、一番大事なことは、水が澄んでいるとか、光が輝いているとか、ますがピチピチしているというような ことだと思うのね。」
そう言いながら私の気持ちは、どこか中途半端だった。ほんとうにそう思ったし、生徒たちに一番伝えたいことだった。けれどもまたどこかで、“こんなこと言っても、この子達には分からないかもしれない”という気持ちがあった。
そして前奏を弾き始め歌になったとたん、私はほんとうにショックを受けてしまった。生徒たちの歌が、変わっていた。どこかで“わからないかもしれない”と 思いながら私が発した言葉を、中学生は一瞬にして真っ白な心で受けとめ、“ではどうすれば”などと余計なことは一切考えず、もうさっきと違う歌を歌ってい た。これが小学生だったら、私はあんなにショックは受けなかったかもしれない。でも体も大きく大人びた中学2年生が、あれほどの純粋さを持っていること に、またそれを自分が信じ切れなかったことにすっかりたじろいでしまい、譜面を見てもどこを弾いているのかもわからなくて、2番に入る前に止まってしまっ た。頭の中は真っ白。あわてて「ああ、ごめんなさい」と言うと、男の子が間髪入れず「もう一度やりましょう」と言ってくれた。もう一度はじめから歌った 「ます」はほんとうに素敵だった。でも私が止まったりしなければもっと素敵だったはずだ。私の完敗。
続いて「たび」。
1番から5番までのポイントをできる限り手短かに話した。今度こそ真剣勝負、とピアノに向かった。弾きながら、中学生たちと「一体」になることに、すべてを集中させた。
思い出して気づいたことがある。私は生徒たちに対して、横を向く形でピアノを弾いていた。音楽の授業では、生徒と向かい合うようにして、一人ひとりの顔を 見ながら弾くのが良いのかもしれない。そのことで生徒の気持ちや状態が、よりわかるし、生徒にも安心感が生まれると思う。でも私はそのやり方に慣れていな い、というだけでなく、私にとって、音楽で生徒たちと一体になるということは、まず自分がピアノを弾くことに集中することを通してしか、ありえない。それ は室内楽や伴奏のときと同じということだ。そんなことを改めて考えた。
歌の合間に「トルコ行進曲」と「月の光」を聴いてもらった。ドビュッシーの「月の光」の世界はよほど予想外のものだったらしく、聴き終わった時の生徒たち の表情は、思わず知らない世界に浸ってしまった自分に驚いているような、あっけにとられたような、それまでとは違う中学生の顔を見せてくれた。
とにかく私にとって、とても楽しく刺激的な1時間だった。あとから「小林さんとはどのように打ち合わせたのか」ということを訊かれたけれど、ほとんど打ち 合わせらしいものはしていなかった。私はそれが良かったのだと思う。私のような「教育」ということにはまったく素人の人間が、このような機会をいただける こと自体が、ほかではなかなかないことで、私にとってかけがえのない体験だ。コンサートという形ではないところで、音楽が生きている場に参加できるのだか ら。
そしてもし、自分が打ち込んでいる音楽の立場から何かができるとすれば、それは先に答えが出るようなものではないはずだ。また反対に、大きな意味では「同志」であることが前提なのだ。
そのことを「音楽は手足が動き出すだけでなく、心も動き出すものだと思うの。そういう音楽をみんなと一緒にしてみたいと思って、楽しみに来ました。」と最初に生徒に話した。
年に一度の大会も、きっと手足と心が動き出すようなものになると思います。