振り返ると・・・

2012/06 : 志村 泉
音楽教育の会 「第57回全国大会要綱」

  林光さんに最初にお目にかかったのは、たぶんこんにゃく座の「オーケストラ会議」というものに出席するために、当時(1976年)のこんにゃく座の藤本座 長さんやピアノ担当の小城さんと、林光さんのご自宅に伺った時だと思います。「オーケストラ会議」とはつまり、こんにゃく座のピアニストが集まる(と言っ ても二人だけ)ということだったのです。
私は座員でもありませんでしたし、それまでに何回か学校公演でアルバイトのような形で弾かせていただいただけでしたので、“なぜそんなものに呼ばれるのだ ろう”と思いながらお訪ねすると、林光さんご自身が玄関を開けて、一人遅れて伺った私を中に入れてくださったのです。その時の一瞬ジロリと私に投げかけら れた鋭い視線は、いまだに忘れません。
怖いもの知らずだった私はそれに怖気づくというより、“来るようにと言われたから来たのに、なぜこんなににらまれるのだろう”と、内心不満でした。何しろすごい視線でした。

会議と言っても、藤本座長さんが“座の目指すもの”を熱っぽく話され、それとはあまりかみ合うこともなく林光さんが何倍も熱っぽく語られたのは、数か月後に初演するオペラ「浮かれの兵六機織り歌」のことではなく、その次に書かれるオペラ「白墨の輪」のことでした。
「生みの母親と育ての母親が、子どもを両方から引っ張るんだよ。」「学校の体育館でやるときはさ、周りを丸く生徒が囲む中で、床に白墨で円を書いて、その 中に子供を立たせて引っ張るんだ。」もう林光さんの頭に中にはすべてが描かれているようでした。そういう話をされるときは頭から湯気が出るように高揚さ れ、先ほどの“ジロリ”とは別人のようで、私は、“芸術家とはこういうものなのだ”と思いました。

とにかくあの当時の林光さんが持っていらした、“人を斬るような”鋭い雰囲気は強烈な印象があり、そしてその後徐々にそういうものが、少なくとも表面的にはあまり感じられなくなっていったそのことは、林光さんのお仕事の中身と深く関係しているのだろうと、私は想像します。

後年、音楽教育の会の大会などに連れて行ってくださった時の林光さんは、最初のあの印象とは全く違っていました。
私が大会に参加させていただくようになった最初の頃、林光さんが皆さんの前で何回かおっしゃった言葉を、私は忘れることができません。
「作曲家としてちゃんとした仕事ができなくなったら、ぼくはこの仕事もしない。」という意味のことでした。私にとって実に強烈な言葉でした。
「純粋に(?)作曲家としての仕事をするときと、まったく同じ真剣さでこの仕事をしているんだ。」とも、「どこかで“合わせる”というようなことは絶対にしない。」とも、「この仕事は、それだけの価値のあるものなのだ。」とも感じられました。
あの言葉が強烈な印象で残ったのは、私に向けてもおっしゃってくださったように感じられたからかもしれません。
そして20年間私は、“ああ、ほんとうに林光さんは、おっしゃった通りのことをされている。”と思い続け、今は“見事に貫かれた!”と思います。

“今この時点で、誰もが理解できるか”ということにとらわれず、超一級の真理を絶妙のタイミングで語られた林光さん。“そこまでやるの?”と思うほど、すべての人に楽しさを与えてくださった林光さん。
その大きな器の中で、色々な人が色々な形で成長させていただいた、そのことは、まだ終わったわけではないと思います。。

2012年6月 志村 泉