「緋国民」たちのこと

1992/09/08
志村泉 プレイズ 緋国民楽派 プログラム

今朝、吉川さんから最後の2曲が届いた。6月に「会議」と称して4人で(そういえば今回のあの大胆なチラシのデザインをしてくれた永山嬢もいっしょだっ た)渋谷で台湾料理を食べた時、「ねえー、ほんとう?ほんとうに12曲も書くのお?」と、さかんに言っていた吉川さんが、最初に12曲揃った。「そうよ、 12曲ずつよ」と平然としていた萩さんはまだ?曲。(ご想像におまかせします。)一番早く書いてくれると思っていた寺嶋くんがあと2曲。

「まあ、24曲ずつ書かれちゃったらたいへんだけど、全部で36曲でしょ」と、とんでもないことを言っていた私は、今、ほとんど呆然としながらも、何とかしなければと気を取り直している。”1ヶ月前には揃うでしょう”と甘い考えを持っていた私がいけないのだ。

寺嶋くんと初めて会ってからもう10年近くになる。彼は19才だった。今よりずっと若かった私にも、まぶしいほど若い年齢だった。それまでにも 私のコンサートに何回も来てくれていたそうで、あちらは私のことをよく知っていてくれた。「林 光と仕事仲間たち」というコンサートの中で2台ピアノ8手 連弾の曲で組んでいっしょに弾いた。とても上手だったけれど本番ではずいぶん緊張していた。とにかく芸大の1年生だった。

その後の彼の成長ぶりは、まさに若竹の伸びるがごとく。あらゆることの吸収のしかたは砂が水を吸うごとく。今では連弾などいっしょにしようものな ら、音楽の常識をほとんど知らない私に呆れながら付き合ってくれる、という風で、私もすっかり頼りにしてしまう。まだ20代の彼は作曲家としても、すでに フル回転している。「いい仕事をしていって欲しいな」と思う。

萩さんと初めて会ったのはずいぶん昔、私もまだ学生の時だった。有志が集まって宮川睦子先生にみっちりコンニャク体操を教えていただく「コン ニャク・ゼミナール」で、私が最上級生として幅を利かせていた頃、美しい名前の、それにぴったりのかわいらしい作曲科の学生が入って来たのが、彼女だっ た。

でもほんとうに出会ったのはその数年後、私が一足先にピアノを弾きに行くようになっていた「こんにゃく座」に、彼女が入った時だ。オペラ《なにもないねこ》の初演でピアノを弾かせてもらったのが、彼女の作品の弾き初めだったと思う。

あれから12年!8年前に「こんにゃく座」の仕事から離れた私にとって、今回の彼女の作品は久しぶりの対面だ。”変わった彼女”と”変わらない彼 女”が見えて来て、何か感動してしまう。8月も半ばになって、やっと最初の1曲を持って来てくれた彼女に、「ゆっくり書いて!」なんて言ってしまった。オ ペラの仕事にほれ込み、あらゆる雑務をも引き受けながら多勢の仲間たちの中で作曲をして行く彼女だって、たまには一人静かに五線紙に向かう時間が欲しいん じゃないかしら、なんて思ってしまう私は、ほんとうにヤサシイヒトなのだ。

吉川さんといつから知り合ったのかよくわからない。というより、実質的には今回初めて「吉川和夫」という作曲家を私なりに意識することが出来た。(という言い方はたいへん失礼ですね。もちろんいい仕事をたくさんしていらっしゃる作曲家ということは、知っていました。)

この《12の前奏曲》が吉川さんの仕事の中で、どのような位置を占めるのか私にはわからない。でも私にとって、これは新しい世界だ。”心の中に絵 を描く”ような気持になるのだ。絵心の全くない私が、自由自在に絵を描いて行く。どこにも存在しない12枚の「音の絵」を。もちろん、これは私の勝手なと らえ方です。でもその”勝手なとらえ方”こそ、初演者の”権利”です。

あと12日間でどれだけのことが出来るのかわからない。でもとりあえず36個の前奏曲を私の”手”で世に送りだせることは、ほんとうにうれしいです。

1992年9月8日 志村 泉(演奏会プログラムより)