ベートーヴェン三大ソナタ そして久野久のこと

1998/03/20 : 志村 泉
ベートーヴェン三大ソナタ プログラムほか

コンサートによせて
ベートーヴェンの「三大ソナタ」と呼ぶとき、最もポピュラーな選曲が『悲愴』『月光』『熱情』の三曲。この三つを並べるというのは”身のほど知らずにも ほどがある”と言われることに違いない。確かにそうだと思う。でも、こどもの頃、理屈抜きで心うばわれながら耳を傾けた曲、私の力量とは関係なく聴く人の 心を動かす曲、今そこにベートーヴェンがいるように感じられる曲・・・。そんな作品を三つ並べて弾いてみたいと思った。

そして、ベートーヴェンを弾く時、どうしても私の頭から離れない一人のピアニスト「久野久」のこと。久野久が『ベートーヴェンの午后』と題する リサイタルを大正七年に奏楽堂で開いてからちょうど八十年。燃え上がる情熱のすべてをかけたその演奏は、まさしく「久野久のベートーヴェン」であったに違 いない。たとえ”本場ヨーロッパ”でどのように評価されようとも・・・。

異国の地に燃え尽きた命に心運ばせ、このリサイタルを久野久さんに捧げたい。

志村 泉(演奏会プログラムより)


<久野久のこと>
「久野久」のことがいつ頃からどんな風に私の中に入ってきたのか考えてみる…。実際今でも私は、久野久についてそんなに多くを知っているわけではないし、 むしろ積極的にたくさんのことを知りたいとも思わずに来ました。にもかかわらず、十数年前にその名前を知ってから、どれほど私は久のことを考え、心の中で 対話をして来たことか。

それはまず、明治から大正という日本の洋楽界がスタートしたばかりの時代に生き、若い時から「天才」と言われ、洋楽界の中心に時代の寵児として存 在し、やがて渡ったヨーロッパで自ら命を絶ち「悲劇のピアニスト」として名を残す-というあらゆる面から見て私とは全く違う久野久という人が、同じ女性と して、同じピアノという楽器に出会って、どんな風に感じどんな風に演奏したのだろう、というごく単純な思いから始まっていました。

5,6年前、奏楽堂の一階にある展示室で、”大正7年にべートーヴェンのソナタ、「悲愴」「月光」「熱情」を弾くリサイタルを開いた”というコ メントとともに、初めて久の写真を見ました。(実際にはその三曲の他に、「ワルトシュタイン」と「テンペスト」、つまり一晩に5曲のソナタを弾いてい る!)

同じ頃、中村紘子さんの著書「ピアニストという蛮族がいる」の中で、久野久について具体的に知ることができたのです。この本は、信じられないほど 豊かな知職と的確な視点でみごとに「ピアニスト」が語られていて舌を巻くのですが、特に私にとっては久野久のこと、また久をとりまく状況を知ることのでき た貴重な本なのです。

そして今回のリサイタルを前に、思いがけずムジカのスタッフの方達が久野久に関する資料を探してくださり、久自身の文も含め、いくつかの資料を直接読むことができました。

-1886年(明治19年)、滋賀県大津の地主の家に生まれるが、幼い時神社の石段から転落し足に障害を残す。小学校に上がる頃相次いで両親を 亡くし一家は離散。”芸を身につけ将来は自活の道を”という叔父の考えで生田流の琴や三味線、長唄などを習得し13才で師範の免状を許されるほどに上達。

“これからは邦楽よりも洋楽”と言う兄の勧めで1901年(明治34年)東京音楽学校に15才で入学(その3年前に滝廉太郎は卒業し、2年あとに 山田耕作が入学して来る。)アメリカ、ヨーロッパヘの留学を終え、帰国後直ちに音楽学校の教授となっていた幸田延(露伴の妹)のクラスでピアノを勉強(同 じ頃美術学校で学んでいた彫刻家朝倉文夫とは個人的にも交流があり、久の死後、朝倉によって久の墓碑が建てられている。)

15才からピアノを習い始めた久は、入学当初は教官も退学を勧めるような状態であったというが、夜中の2時まで一心不乱の練習を続けるほどの激しさでみるみる上達し、1906年(明治39年)には優秀な成績で卒業。更に研究科に進み4年後には助教授に任命される。

ピアニストとしても圧倒的な人気と名声を得、べートーヴェンを得意とし、演奏の場は朝鮮や満州にまで及ぶが、経済的には兄姉の家族まで久が支えなければならないつらい状況が、生涯続く。

1914年(大正3年)27才の時、交通事故で頭と胸を負傷し3ヶ月近く入院。この事故以後、もともと激しい性格であった久が、いっそう精神的に不安定になったと多くの人が感じている。

1918年(大正7年)、上野の奏楽堂にて「べートーヴェンの午后」と題するリサイタルでソナタ5曲を演奏し、大成功を収める。5年後の1923 年(大正12年)、渡欧記念、事実上最後の演奏会となった二度目の「ベートーヴェンの午后」のリサイタルで後期のソナタ、「告別」「ハンマークラヴィー ア」「作品110」「作品111」を演奏。

4月に渡欧。ベルリンで生活を始めるが、ヨーロッパの生活に馴染めず苦労を重ね、また指を痛め半年間ピアノが弾けない状態の中でコンサートに通 い、ザウアー、ダンベール、フリードマン、ギーゼキング、フイッシャー、ケンプ、シュナーベル、ペトリ、クロイツァー、ブゾーニなど大ピアニストの演奏を 熱心に研究し、特にキーゼキングの演奏に深い感銘を受ける。

1924年(大正13年)9月にウィーンに移り、リストの高弟であったザウアー教授のレッスンを受ける。

1925年(大正14年)、ウィーン郊外のバーデンにて自殺 38才。-

今、久野久の生涯をふり返ってみると、日本が西洋の文化にやっと目を開き始めたばかりの、とてもその本質を掴める状況ではない中で「天才ピアニ スト」として活躍し、教育者としても最高の地位にいながら、「本場」のヨーロッパではそのあまりの格差に絶望し、自ら命を絶つしかなかった「悲劇のピアニ スト」という像が、誰の目にも浮かんでくると思います。

でも、それだけではないような気がするのです。

久がヨーロッパへ旅立った時、音楽をもっと確かに掴みたい、もっと自分を磨きたいという気持ちと、自分もこれだけの力を持っているのだから、 ヨーロッパでも認められるのではないかという期待もあったことでしょう。そしてやはり、行ってしまったらたいへんなことになるという漠然とした不安も、ど れほど大きかったことか。

-私は西洋行きは望みませぬ。西洋へ行かずに十分ニギレル自信と、このまま日本にいたいわが儘があります。けれど2年3年5年自由な時間がほしい のです。そうしないと今のあわれさとつらさを抜けられません。唯このままのエラサ位で死ぬかも知れませんね。けれどやれるだけはやりまして、少しでもエラ クなりましょう-(江馬修への手紙より)。

久の時代からみれば留学ということが全く当たり前になっていた私の学生時代、私も一時は人並に留学を考えていたことを思い出します。ごく普通 の、と言うより無器用でどちらかと言えば、劣等感を持った一学生であった私にとっては、「留学」はやはり夢であっても、行ってしまったら自分はダメになる かもしれないと思うものでした。

それは、”こんなにピアノが好きで弾いているけど、どうしても自分とピアノを弾くことが一体にならない”という気持が拭い切れず、今思えば、そん なことを思ってしまう無器用さが私のエネルギーになって来たかもしれませんが、その時点でも、留学し「本場」に身を置けばその気持が解決するとは思えな かったし、そんな気持を持つことすら許されない中で、ほんとうに自分が無くなってしまうのではないかということの方が不安でした。要するに私は留学には向 かない人間だったと思います。

これは私の想像ですが、久は日本で活動している時、音楽に対して”遠くて遠くてとても手の届きそうもない気がして”いたとしても、ある意味でやはり、ピアノを弾くことで燃焼し切っていたと思うのです。

初めて東京へ出て来た15才の久は、浅草で見た活動写真の中の乞食の姿に、自分も音楽の道でひとつ間違えば、あんな姿になるのかもしれないと思っ たと言います。良家の子女が音楽の道に進むというパターンからはほど遠い、切羽詰まった状況の中でピアノに出会った久は持ち前の集中力と頑張りで腕を上 げ、ベートーヴェンの音楽に魅せられて行く。激しい性格の久がべ一トーヴェンを得意とするのは自然なことだと誰もが思う。

でもそれ以上に、肉体的障害も含め、幼い頃から辛い状況にあった久が、口では”手が届かない””苦しくて苦しくて”と言いながら、やはりベートーヴェンを弾くことで、その音楽に自らが癒されていたのではないかと思うのです。

久が本音を言える数少ない人であった江馬修の言う通り、”久の心情と運命の中には明らかにベートーヴェンの偉大な悲劇的な音楽に呼びかけて行くも のがあった”かもしれないけれど、”理智的な聡明さより直感的な洞察力” ”精神的生活の深い影のかわりに溌剌として弾力に富んだ生命力”に溢れた久が、 当時の女性としても小柄な、しかも不自由な体でピアノに向かいベートーヴェンを弾く時、久の体の奥には喜びが溢れていたのだと、私には思えてならないので す。

“アンダンテ・カンタービレでさえ歌うかわりにおこっていた”という印象を聴く人に与えたのも、久の”生命力”のなせる表現だったのではないで しょうか。今から見ればたとえそれが「べ一トーヴェンの音楽」として稚拙な、見当はずれと言われるものであったとしても、それを、音楽的必然性が何ひとつ ないものだったとは言えないし、久の演奏に熱狂していた当時の音楽界そのものを否定することもできないと思うのです。

今回、久に関する資料を読んで一番感じたのは、久の「一途な純粋さ」。結末から来る「悲劇的な」という形容詞にとらわれずに見て行けば、久野久 の、まるごと飛び込んで行く一途な強さは、今私たちのまわりで見つけようとしてもなかなか見つからない、キラリと光る強烈な個性なのではないでしょうか。

久のベートーヴェンをほんとうに聴いてみたかった!自分流に完全燃焼していた久がヨーロッパに身を置いた時、久自身が書いている通り、音楽会に通 い大ピアニストの演奏から学び、レッスンを受け、久が望んでいた勉強ができた。でもその勉強を全うしようとすれば、とりあえず久の中で久自身とピアノを弾 くことが離れてしまう。その矛盾を越えて行くエネルギーが、もう久には残っていなかったのではないかと思うのです。

私は何故か、会ったこともない久野久が好きです。好きだからかもしれないけれど、きっと久野久は、ピアノが弾けてほんとうに良かったと思っていると思う。そうではありませんか?久野久さん。

志村 泉(機関紙「ムジカ」1998年2月号より)