ふたたびテレジーンへ-その2

1999/05 : 志村 泉
チェコ・音楽と平和の旅Ⅱ

テレジーンの町の文化ハウスの会場はさほど大きくはない、もともとの作りは立派だけれども、ちょっと寂れた感じのするホールだった。そこに小さなペトロ フ(チェコ製)のグランド・ピアノが置いてある。シチュエーションとしては何ヶ月も前から「テレジーンのコンサート」として自分の中で、思い描いていた通 りのものだった。″とうとうここで弾くんだ″と2年前のあの出会いから、このコンサートの実現までの間の時間を思い、胸がいっぱいになった。

昨晩までのパズデラさんとの2回のリサイタルと、そのための毎日違う場所を借りての練習で、さすがに体は疲れきっていた。それに覚悟はしていたものの、 前夜プラハのマルティヌー・ホールで弾いたスタインウェイのフル・コンサートのタッチと響きが、まだ体の中にしっかり残っている状態で弾くその小さなぺト ロフは、決して満足できるものではなかった。

それでも一人でリハーサルをしながら、うれしい気持ちでいっぱいだった。町の人達は何人ぐらい来てくださるのか見当もつかなかったけれど、たとえ聴衆は少 なくてもかまわない、ここで弾けばウルマンも、クラインも、そしてここに収容されていた人達がみんな聴いてくれるんだと、ほんとうにそう思えた。

リハーサルを終え、渡辺さんから、町の中にコンサートのポスターが貼ってあることなど聞いている時、一人の女性が現れ「ガビー・フラトウです」と名のら れた。「今お茶を入れますから。コーヒーがいい?紅茶がいい?」と聞いてくださった。最初はどういう方なのかよくわからなかったが、素晴らしくおいしい コーヒーを素敵なカップで持って来てくださった彼女は、自分がドイツ人で、東西ドイツが統合された頃初めてテレジーンの音楽を聴き、ほんとうに驚き感動 し、それ以来ここでテレジーンの音楽を紹介する仕事をしているということを話された。

他にも熱っぽく色々な話をしてくださったけれど、語学のダメな私には、とにかく彼女がテレジーンの音楽に触れ、どれほど感動したかということだけがよくわかった。

フラトウさんはもともと音楽評論家で、ここ数年、収容所の中で作曲された作品を紹介するコンサート・ラジオ番組、また当時囚人達によって上演されたヴェル ディのレクイエムを、数千人の人を動員して収容所の中で野外で上演するなど、信じられないほど精力的な素晴らしい活動をされていることは、あとで知った。

そして彼女は私のこの日のプログラムのことを、クラインとウルマンのソナタが両方入っていること、ヤナーチェク、日本作品が入っていることで、なんと充 実した内容であるかということを何度も言われ、いきなりこんなプログラムを、日本からまったく知らないピアニストが持ってきたことが、信じられないという 風だった。そしてこんな重いプログラムを弾くのに、ここのピアノはほんとうにひどくて申し訳ないと、何度も言われた。私は「ペトロフは好きですから」と 言ったけれど、確かにフラトウさんが言われる通りの楽器ではあった。

開演前、渡辺さんを初め何人かが、町の人がたくさん来てくださっていると、興奮して私に報告してくれた。コンサートはまず昼間、市庁舎の会議室でお会い した女性市長のチェホバさんのあいさつで始まり、そしてチェホバさんが私を皆に紹介してくださった。客席は40数名の日本からの参加者と、その倍ほどのテ レジーンの町の人々で埋まっていた。

ヤナーチェクの「霧の中」を弾き始めたとき、音楽が自然に流れ出して、客席に溶け込んでいくように感じられた。全く初めて出会う人々、というよりむしろあ ちらから見れば、遠い国からいきなりやって来た名も知らぬピアニストが弾き始めたそのピアノの音が、新鮮に、でも何か不思議な安心感をもって受け取られて いるのを感じた。

それぞれの曲の合間に、2年前に初めてテレジーンを訪れギデオン・クラインを知ったこと、去年日本で初演したこと、日本の作品のこと、そして今ここでこ うして私の演奏をテレジーンの人々に聴いていただけることがどんなに私にとってうれしいことかなど、お話しした。もちろん通訳が入るけれども、私の話もピ アノの音と同じように、とても自然に受け取られているのがわかった。意味がわかるということだけではなく、私がお話ししたいその気持ちがまるごと伝わって いるのを感じた。

話をしながら何度か″これは私がずっとやってきたことそのままだ″と思った。作品と出会い、その作品の中身をせいいっぱい感じ取って音にして、言葉でも語って聴いてもらう。いつものコンサートと同じだった。

やはりクラインとウルマンはこちらの気持ちだけでなく、テレジーンの人達が特別な思いを持っていることがよくわかった。チェコヘ来てからの練習不足をふき飛ばすように、私の中ですべてのアンテナが120%働いているようだった。ピアノもせいいっぱい答えてくれていた。
それでも幾度か、豊かな和音の響きが欲しいような時に、実際に鳴る音とのギャップにめげそうになるのだが、次の瞬間″クラインが収容所の中でどんなピアノ を弾いていたのか、この作曲家達がどんな状況の中でどんな素晴らしい音楽活動をしたのかを思えば、何故私が今、このピアノに不満を持つのか。それはおかし いじゃないか″という声が聞こえて来るようだった。実際、楽器の力、私の力を超えて、音楽が伝わっていたと思う。

皆ほんとうに喜んでくださった。特にフラトウさんは感激を押さえきれないように私の演奏のあと、あいさつをしてくださった。私の演奏を高く評価してくだ さったこともうれしかったが、最後に、「テレジーンにいたすべての囚人達に代わって、あなたにお礼を言いたい」と言ってくださった時は、ほんとうに胸が いっぱいになった。

“多くの優れた芸術家達が留おかれたこのテレジーンに、芸術が再び戻って来るべきだという考えのもとに、私はすべての行動をしています”とおっしゃるフラ トウさんが、私の思いを、テレジーンに関係したすべての人達を代表して受け取ってくださったのだ。フラトウさんとの出会いによって、あの2年前からの不思 議な出会いの意味が、大きくふくらんだ。

後日、フラトウさんからの手紙には、この一夜のことが、″美しく、もっとも忘れがたいコンサートが、あたかも天国からテレジーンヘ降りてきたようなものだった″と書かれていた。

志村 泉(会報『ムジカ』221号(1999年9月発行)より