昨日のことのように

2010/08 : 志村 泉
「日本・ロシア音楽家協会の歩み」~25周年記念誌~

私が間宮芳生さんのピアノソナタ第2番の演奏のために、ソ連・レニングラードの国際音楽祭にに招待していただいたのは1987年、ペレストロイカの真っ最中で、ちょうどアメリカのレーガン大統領の、ソ連訪問のときでもありました。
間宮芳生氏ご夫妻、松村禎三氏ご夫妻、寺原伸夫氏ご夫妻、そして松村禎三さんのピアノコンチェルトのソリストとして野島稔さんという一行の中に、入れていただきました。
私はそれまで海外に出たことすらなく、ただ自分では、“海外へ行くときには勉強のためではなく、演奏のために行きたい”と、夢のようなことを考えていたのが実現したのでした。今思えばほんとうに恵まれたことでした。
今のペテルスブルク、当時のレニングラードで2週間にわたって開かれたその音楽祭は64カ国が参加、クラシックからジャズまで、毎日いくつもの会場でコ ンサートが開かれる大規模なものでした。音楽祭一色に染まった中でなぜか私一人別のホテルになり、朝食をとっていたら目の前にクセナキスが現れたり、コン サート会場からホテルに戻る専用バスに乗り込むと、ジョン・ケージが一人でいる私に、それは魅力的な温かい笑顔で微笑みかけてくださったり、あのときの私 にとっては“夢が現実になった”以上の毎日でした。
私の演奏は音楽祭の3日目だったと思います。ピアノソナタ第2番は20分ほどの大曲、と言うより難曲で、もう無我夢中で演奏したのを覚えています。会場はグリンカホールというそれは美しいところでした。
数日後、間宮氏ご夫妻と聴きに行った合唱のコンサートで、間宮氏に声をかけた方がありました。ハンガリーの作曲家・クルターク氏でした。私の演奏をお聴きくださっていて、「あなたの“間”に対する感性が素晴らしい」ということを言ってくださり、感激しました。
エルミタージュ美術館を見たり、町を自由に歩きながら、毎日コンサートを聴きに行きましたが、どこの会場にもソ連の作曲家たちの肖像画が掲げてあり、自 国の作曲家たちを大事にしていると感じましたが、とにかくどこへ行ってもチャイコフスキーよりショスタコーヴィチより誰よりまず、レーニンの肖像画が一番 にあるのがとても印象に残っています。
その音楽祭の最大の呼び物は、ズビン・メータ指揮のニューヨーク・フィルでした。私もそれを楽しみにしていましたが、実際ものすごく感動したのは、レニ ングラード・フィルとリトアニア・フィルでした。指揮者も日本では名前も聞いたことのない方たちでしたが、オーケストラ奏者たちとの信頼関係の深さ、音楽 の深さに圧倒されました。
このレニングラード滞在中にたいへんお世話になったのが、間宮氏の友人でいらした作曲家のカジライエフ氏。「今度は是非、私の生まれ故郷のダゲスタン共 和国へ皆さんを招待したい。」おっしゃってくださり、その地方が民族音楽の宝庫であるだけでなく、一つ一つの村が独自の言語、風習、生活様式を持ち、民俗 学的に見ても世界的に貴重な地域であることを、熱っぽく話してくださった。それはほんとうに興味をそそられる夢のような話でしたが、あまりにも面白過ぎ て、そんなところに自分が行くことになるとはとても思えませんでした。それが2年後の1989年、ほんとうに行かせていただくことになったのです。

今度はモスクワとダゲスタン共和国の首都マハチカラで、間宮氏の3番のピアノソナタを弾かせていただくというものでした。あの時モスクワに着いてすぐ、 作曲家協議会の事務所に伺ったときのことは忘れられません。あちらが企画された間宮芳生作品コンサートのことで話し合いがあり、そこにはアラム・ハチャ トゥリアンの息子さんでやはり作曲家のカレン・ハチャトゥリアン(お父さんにそっくりでした)氏を含め何人かの方がいらして、その中のボレジャイエフさん という方(楽譜の出版に関して責任を持っている方と伺ったと思います)が、このコンサートでは自分が間宮氏のピアノソナタを弾くのだとおっしゃるのです。 ピアノソナタ第3番「スプリング」は、1987年の私のリサイタル「志村泉による三人展」のために書いていただいた作品で、私はそれを弾く為にやって来た のでした。そんなこと最初から決まっていたことなのに、あちらは「自分が弾く」と譲りません。一瞬頭がボーっとしてしまいましたが、気を取り直して「それ ではコンサートの最初と最後にそれぞれ弾きというのはどうですか」と提案したら、「そうしよう」ということになったわけです。それで一つのコンサートで同 じ曲を、二人のピアニストが弾くことになったのですが、実際面白かったと思います。ずいぶん違う解釈でしたから。
モスクワのコンサートが終わり、なんだか危なっかしい国内便の飛行機に乗って、ダゲスタン共和国に向かいました。飛行機が空港に着いてもなかなか降ろし てもらえません。外を見ると、民族衣装をつけた人たちが楽器を持ったりして集まっています。何か特別なことがあって、それが優先なのだなあと思って待って いると、それは間宮ご夫妻と私を迎えるセレモニーだと聞かされました。写真を撮るからタラップからゆっくり降りてくるようにと言うのです、そんな!とあわ てましたが、間宮先生も「だって僕ジーパンなんかはいてるから、志村さん先降りてよ。」とおっしゃるのですが、私だって相当リラックスした格好なわけで す。他の乗客の人たちは文句も言わず待っているので申し訳なく、仕方がないのでみんなで出て行きました。音楽が鳴り踊りが始まり、一緒に踊って、捧げられ ているパンに塩をつけて一口食べるようにと言われ、しばらくまるで映画の中のシーンのようで、とにかく不思議なところへ来たのだということを感じました。
マハチカラのコンサートが終わり、そのあとのカジライエフさんに案内していただいた数日の旅は、一生忘れられないものです。とにかく「これ以上奥地には、 人は住んでいないだろう」と思うところを車で行くと、不思議な村に着いて、もうこれ以上奥にはと思っても、まだ進んでいくとまた不思議な村があるという感 じなのです。カジライエフさんのおっしゃった通り、太鼓、踊り、歌、そして息継ぎをせずに吹き続けるお豆腐屋さんのラッパのような楽器、どれもすごかっ た。
あの時見た風景も忘れられない。目の前の白い山が、一瞬揺れたように見え、一体なんだと思ってよく見たら、一山羊で埋まっていたり、何とも言えない独特な 形をした美しい山が見渡せる丘の上に、その村から召集されて第2次大戦に送り込まれて命を落とした、千何人もの兵士たちの慰霊碑があったり、村全体は実に 貧しそうな暮らしをしているのに、どの村にも共産党に幹部の人たちのための立派な建物があり、そういうところに泊めていただいた。
あのあたりはどうなっているのだろうかと、今でも時々思い出します。

「日本・ロシア音楽家協会の歩み」~25周年記念誌~  日ロ音楽家協会 2010年発行 より転載